はじめに・・・
サイト改変・移転に伴って、旧サイトからのコンテンツを移動・リライトしております。
パラグライダー回顧録も既に122回まで進んでおりますが、改めて新サイトにて多少の編集も加えながら掲載してまいりますので、よろしくお願いいたします。
この「パラグライダー回顧録」は、Pikaichiが立山エリアでパラグライダーを始めた1992年からの出来事を、当時の環境やギア・人・イベントなどと絡めてお届けするものです。
Air BANDな日々
過去の日記にも記したことがありますが、Pikaichiがパラグライダーを始めようと思ったのは「空が飛びたかった」と言う最も単純な理由からです。当時、エアバンド(航空無線)を聴いたり写真を撮ったりと、およそ普通のマニアが行なうであろうことで満足していたのですが、どうしても空を飛びたい欲求にかられて「飛行機のライセンスを取得するしかない!!」と言う結論に至りました。
自家用操縦士は
しかし、当然のことながら日本で自家用操縦士免許を取得するのは簡単ではなく、ほとんどの方がアメリカで免許を取得するのがスタンダード。調べてみると費用は当時でおよそ300万円~500万円ほど。回転翼(ヘリ)の場合だと1000万円超。趣味で出す費用ではありませんでした。さらに、アメリカで講義や実技となると英語も必要になります。もはやこの時点でギブアップするしかありませんでした。
ハングがダメならパラか・・・
そうなると別の方法を考えなければなりませんが、他に空を飛ぶもので目にしたのは石川県の「獅子吼高原」で飛んでいるハンググライダーでした。でも、これは技術習得までに時間がかかると言われていました。時間がかかればそれだけ費用もかかります。コントロールが難しく、練習中での怪我も絶えないと言うネガティブな話も聞きましたからハングの選択肢もなくなりました。
そんな時、立山ゴンドラスキー場(現立山山麓スキー場らいちょうバレーエリア)でパラグライダーの大会をやっていると言う話を聞き、嫁さんと一緒に見に行きました。確か1991年だったと思いますが「立山ゴンドラカップ」と言ってJHFナショナルポイントリーグ対象大会でした。今のJリーグですね。この大会にはEDELのテストパイロットだったリ シャーギャロンが招待されており、エリア内を周回してから美女平に渡り、最後は芦峅スキー場にゴールすると言う27Kmくらいのタスクでした。当時としては難易度Sクラスのもの。飛んでいた機体はEDELのZX、NOVAのファントム、エルドカのトリエール、ファルホークのAPEXなどの時代。
その中でもリシャーは美女平から大辻の導水管へ渡りスルスルっと上げて大辻山をトップアウトし、稜線上を西進してトップゴールするのを見て、「パラグライダーって凄いなぁ・・・」と思ったものです。
二人のキーマン
大会を観戦していた時に現れたのが、Pikaichi家の向かいに住んでいる西田さん(当時67歳くらい?)でした。西田さん自身もパラグライダーをやっていてクラブ (ハミングバードパラパントクラブ、現ハミングバードパラグライダークラブ)の会長も務めておられました。これを聞いて「自分もやるしかない!!」と思ったのでした。(これだけ歳をとった人でも出来るんなら、自分にも出来ると単純に思いました)
西田さんの勧めもあり、門を叩いたのはJMB立山パラグライダースクールでした。訪れたのはシーズンも終盤の11月3日のこと。スクールの営業最終日と言う日(エリアもこの日でシーズン終了)でした。一人では心細いので、会社の同僚二人と一緒に話を聞きに行きましたが入校したのは私一人でした。
この時説明してくれたのが当時の校長である扇澤郁氏。この時「世界に向けて大会とかに出たらいいねぇ・・・」と扇澤さんに声をかけてもらったことが、Pikaichiの競技活動を行う原点となっています。それがなかったら競技の世界に身を置くことはなかったかもしれません。そう言う意味ではOGIに感謝ですね。
実際のスクーリングは翌年の1992年4月から受講することになる訳ですが、それは2回目以降でお話して行きます・・・。