シーズン幕開けは大会から
立山山麓フライトエリアは4月から11月までが通常シーズン。冬季も飛ぶことは出来ましたが、テイクオフや飛行範囲・ランディング場が限られた条件でのみ飛行可能となっていました。飛べる期間はゴンドラの営業時期に完全依存するのですが、概ね4月下旬から11月上旬がグリーンシーズン営業期間となっています。
そして、本格的なフライトシーズンの幕開けは大会開催で始まります。当時JMB系スクール・エリアで大会が開催出来るのは立山くらいしかなかったのだろうな?と思うのですが、そのためか立山での大会開催回数はホントに多かったですね。1992年だけを数えてみても
- 立山ゴンドラカップ(5月)
- 立山マスターズカップ(6月)
- 立山グリーンカップ(8月)
- 立山ロッジカップ(9月)
くらいはあったかな?と思います。隔月で大会が開催されているようなイメージでしたね。
有名人がいっぱい
この年の立山ゴンドラカップはエキスパート向けの「ワールドクラス」と、一般フライヤー向けの「オープンクラス」がありました。当時の「PARA WORLD」に記載されている記事を読むと、本来「ワールドクラス」はJHFのナショナルポイントシステム対象大会となるはずだったのが、直前に取り下げられたと書いてありました。「ポイントを追うのではなくて、真に世界に通用する選手を育てる場を作っていかなければダメだ」みたいな趣旨らしいですが。私は駆け出しもいいところでしたので、その事情を窺い知ることは出来ませんでしたが当時もいろいろあったんでしょうね。
立山の大会には凄い選手が集まります。当時の有名どころと言えばチームアエロタクト(通称Aチーム)の田中美由喜さん、小西寛和さん、池田恵一さん。他のメーカー系(通称Bチーム)では峰岸正弘さん、長島信一さん、森山拡さん、西ヶ谷一志さん。この方々の名前は、「PARA WORLD」常連のビッグネームでしたし、ご自身も記事などを執筆していらしたので、Pikaichiのような駆け出し新人もよく知っていたわけです。扇澤さんはまだ「ビッグネーム」と言う位置づけではなかったのですが、1991年のナショナルポイントシステム1位を取るなど実績を上げておられましたね。
大会で活躍していた機体も1991年から大きくは変わっていませんでしたが、各メーカーの主力は
- EDEL(イーデル):RACER(レーサー)
- ADVANCE(アドバンス):OMEGA2(オメガ2)
- NOVA(ノバ):PHANTOM(ファントム)
- Falhawk(ファルホーク):APEX-MR(アペックスMR)・VT501
- AILES DE K(エルドカ):トリエール(綴りがわらない?)
- AIR WAVE(エアーウェーブ):VooDoo(ブードゥー)
- UP(ユーピー):KATANA-FR(カタナFR)
- ProDesign(プロデザイン):CHALLENGER COMPE ECO(チャレンジャーコンペ・エコ)
- Firebird(ファイヤーバード):Ninja-C(ニンジャコンペ)
と言った感じでしょうか?まだまだ抜けているメーカーや機体もあると思いますが、頑張って思い出してこれだけでした(苦笑)。
タスクも20Km台が中心で、30Kmを超えると「Big Task」と言われる時代でしたね。タスクはJPAの「チャレンジリーグ」くらいのものだと思ってもらえばイメージしやすいかな?と思います。まぁ、機体のレベルを考えると、それでも大変なタスクだったのですがね。
5月の天気は不安定
これは今も同じなんですが、5月初旬のお天気と言うのは不安定なんですよね。まだまだ上空に寒気が残っていたり、気温の寒暖差が大きいと言うこともあるのですが、この年もまさにそんな様相でした。テイクオフにはうっすらと雪もまだ残っていたと思います。競技日程3日か4日くらいあったと思いますが、結局競技が出来たのは1日だけでした。競技の内容は全く覚えてません。それでも、パラグライダーの大会ってやつは雨さえ落ちなければテイクオフで待機するんですよね。ガスがかかっているテイクオフで選手がずっとウェイティングしてガスが晴れるのを待ったり、風が弱まるのを待ったりしていたのを覚えています。自然相手の競技ってのは、ホントに大変なんだなぁと思いました。
大会を目指そう
この時点からPikaichiは「パイロットになったら大会に出よう」と思っていましたので、有名選手や競技内容には凄く興味がありました。自分の講習が出来なくても、それを見る事・知ることが出来る方が重要でしたから、パッとしない感じで終わったのは残念でした。それに、「PARA WORLD」には「気軽に声をかけて下さいね」って書いている有名選手にも「気軽」に声なんてかけられるはずもなく、これと言った収穫のないまま大会は終了してしまったのでした。
これ以降、Pikaichiは積極的に大会のお手伝いをすることになって行くのです。